ドヤ街と観覧車 は、インターネットのひとびとに、どのように読まれただろうか? 安倍政権を支持する立場からは、盲目的に安倍批判に邁進する暴力的な両親と、それに苦しめられる繊細な女子高生との対比を、マジョリベーションとして消費することもできただろう。マジョリベーションとは、majority と masturbation の造語であり、「私たちはあいつらみたいなキチガイじゃなくてよかったね」という、エンターテイメントとしての相互確認のことである。
電飾さんからのインターネットでの応答は、「多様な人々がそれぞれの傷つきに基づいてそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」というものである。では、私たちは、私たちの傷つきをどのように表明し、また、それをどのように受け止めてきただろうか?
私は私なりにやってきたことがある。分散SNS、あるいは私のインスタンスである 3.distsn.org では、傷つきを安全に表明できる場所を提供しようとしてきた。また、インターネットが少数の有名なユーザーのためのものにならないように、あるいは、私たちの傷つきの表明が誰にも届くことなく消えてしまうことがないように、レコメンデーション・フェアネスというイデオロギーを掲げて活動してきた。
現実には、どんなに手を伸ばしても、届かないもののほうが多い。私は党派的な理由から、電飾さんのご両親の活動を否定することができない。
私の見立てでは、あらゆる「正しさ」が金持ちの悪趣味自慢にすぎないという世界が、もうすぐそこまで来ている。左派政党は、もはや「正しさ」を捨てて、生身の「傷つき」だけを掲げて戦うべきかもしれない。
それでも、私たちは、傷つきの表明だけで、私たちの共同体を構成することはできない。あのとき、私たちの前には、観覧車と運河があった。電飾に彩られた観覧車はアベノミクスのようであり、暗い水底は左派政党の趨勢を暗示しているようであった。ときおり、このような即席の魔術に行き当たることがある。二人の党派的な相克にもかかわらず、電飾さんが観覧車に乗りたいと言えば、私は喜んでついていくし、私が水底に沈むときは、電飾さんの手を引いて行きたいと思う。