そもそも、百合を観賞するにあたり、「私」の存在は本来不要なのです。
「百合は関係性の射影である」というのは私の言ではありますが、しかしそこに「私」という存在がそのまま在って良いかといえば、断じて否でありましょう。
言うなれば無限小な存在として、関係の象る輪郭を観測可能であれば十分であり、そこに「私」という規模を持ち込むのは情報過多になるのです。
百合を観測する私もまた、百合を観測する障害となり得る、この矛盾に向き合いながら如何に鑑賞体験の純度を高めていくか、それこそが私の百合に対する有り様と言ってよいでしょう。
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無宛@ぽよ (lwve9@mstdn.poyo.me@mstdn.poyo.me)'s status on Wednesday, 02-Jan-2019 17:38:55 JST 無宛@ぽよ - 仏教的虚無(Maborotopia) repeated this.