75年経っても、草木も生えぬどころか「それぞれの正義」のために言及され続けるのだ。50年経った頃にはもっと政治色の強い扱いだったし、25年経った頃には更にイデオロギーに拠ったものだったろう。
起きてからまだ間も無い東日本大震災も、真っ最中のコロナ禍も、ありとあらゆる言及が政治的立場の表明のように扱われてしまうのはやむを得ない事かも知れない。
その声の大きさに、実際に巻き込まれ、誰かを喪った人が痛みを吐き出すことさえ憚られて口をつぐんでしまう事もきっと多かったのは、現状からしても想像に難くない。
大きな声は確かに必要なのだ。だけど小さなつぶやきがその中に含まれているわけではない。でも一緒に大きな声を出しているとみんなで一つになれたような気がしてつい忘れてしまうのだ。