歴史は面白い:
富山県南砺市の真宗寺院・大福寺の太田浩史住職によると、福島県相馬市の民家の庭にある渋柿の約8割が「蓮如柿」「加賀柿」「富山柿」と呼ばれる蜂谷柿の一種なのだそうです。東日本大震災の少し前までは南相馬市の晩秋でも軒先にこれらの干し柿が一面に吊るされた光景が見られたといい、それらは江戸時代に北陸からの移民「入り百姓」がこの地へもたらしたものでした。
1780年代、浅間山の噴火や世界的な冷害により天明の大飢饉が起こると、白河藩や笠間、宍戸藩、相馬中村藩など北関東の諸藩が行った施策の一つが「入り百姓」と呼ばれる国内で完結する移民政策でした。移民のほとんどは加賀藩や越後因幡の真宗門徒だったといいます。北陸は戦国時代からの人口爆発の地ですが、加賀藩などは江戸時代の初めにはもう既に利用できる平地という平地を水田に開発し尽くしてしまっており、千枚田なんてものまで出来ていた時代でした。その中で加賀に住む次男・三男家族などは開墾すべき新しい土地をどこかに探さなければならないわけです。