断見(死んだらきえる)と常見(死んでも残る)の両方を否定できるのは、そもそも「私」という実体が存在しているとは考えないため。死ぬ対象が実は存在しないとする。不生不死といってそもそも生まれてきてもいないし死ぬこともないと実感することでいずれ死ぬ問題を乗り越える(むずい)。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Saturday, 05-Dec-2020 00:45:29 JST
きゅーけー
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Saturday, 05-Dec-2020 01:10:37 JST
きゅーけー
浄土真宗はこれを理解するのが難しいという問題を解決している。一見「南無阿弥陀仏」と唱えたら極楽浄土に転生できるというのは常見の考えにみえるが、実は極楽浄土に生まれたあとは仏となって現世の人々を導く存在になるという設定になっていて自由がない。死んだあとのことをあれこれ考えさせないようにする機能がある。極楽浄土に生まれるのだから冥土にはいかない。よって浄土真宗のお寺でお葬式をする場合には「冥福を祈る」とは言わない方がいい。
南無阿弥陀仏と唱えるのは阿弥陀仏の力(他力本願)によるものと捉えていて、「唱える」ではなくて「聞く」と考える。これには「私が生きている」わけではないということを実感させる効果があり、ぱっと見では仏教っぽくない浄土真宗は実はかなり仏教してる。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Saturday, 05-Dec-2020 01:24:23 JST
きゅーけー
個人的に浄土真宗が好きなのは「南無阿弥陀仏」と唱えたら極楽浄土行きが確定しているところ。現世で良いことをしようが悪いことをしようが救われる。死んだあとが地獄か否かといったことを考えながら生きる人生から解放される。これを聞いてよっしゃ!悪いことしまくろうぜ!ってなることは本願ぼこりと呼ばれていてこれが推奨されているわけではないが、そういった人も救われる。
あとは阿弥陀仏と人の力関係が逆転しないようになっているのも好みで、もしも現世での生き方によって死後の世界が変わるのだとしたら、人が阿弥陀仏をコントロールできてしまう問題が生じてしまうが、どうあがいても極楽浄土に行ってしまうので阿弥陀仏に対して人は何もなすすべがない。
浄土真宗について調べるときは、ソースが寺であることを確認したほうがいい。理由は伏せます。
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