「自由」という単語は、それ単体では何も指し示していない。「表現の自由」、「修学旅行の自由時間」、「体操の自由演技」のように、他の単語との組み合わせによって、初めて何を指し示しているのかが決定される。従って「自由を否定する自由」は特にパラドックスではない。この場合問題なのは、「自由を否定する自由」の最初の「自由」が何を指し示しているのかが明確ではない点にある。たとえば「表現の自由を否定する自由」であれば、何を指し示しているのかは明らかだ。これをパラドックスと考えている段階で非論理的でお話にならない。