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細かいけど自由意志を認めないのは機械論であって科学ではなくないか
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@shovel 勿論機械論的ではない科学(量子力学)等もありますが、自由意志が立脚する場所は量子力学よりは全然マクロなスケールだと思うので脳科学的には自由意志は無いと言って差し支えないと思います
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@Panpsyche ①メトニミーの混乱「カレーライスにはにんじんを使うのでカレーライスはにんじんの料理に分類される」というような文と同じく、メトニミーとして適切ではない(メトニミーが適切ではないと、この例でいえば、「カレーライスはにんじん料理なので栄養学的にはサラダに分類される」という間違った前提が可能になる)②用語の混乱リバタリアンを始めとする現代の自由主義者は「自由意志」というよりは「独立した主体の存在」を元にして理論を組み立てており、非常に端的にまとめるならばアイデンティティーが環境と取り外しても存在することが可能かどうかというということが論争になっている。それに対して、機械論的自然観でいうところの「自由意志」は、法則から離れて物体を支配する超越的な自由意志の存在であり、アイデンティティーの問題とは次元の異なる問題であるため、両者が論じているものを同一のものとして片付けることはできない(カント的に純粋理性と実践理性との違いになぞらえることができるかもしれない)(し、ましてや不適切なメトニミーを用いて対応させようとするのは前提に二重の誤りがあるのではないかと思います)
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@Panpsyche その意味でも自由意志の話ではありません(そして、独立した主体の話です)主体(あるいはその行動)が機械論的に条件付けられているかどうかと、所有権をどう捉えるかとは全く別の話です。たとえばリバタリアンは才能と主体が分かちがたく結びついているから所有権の擁護を主張するのであり、行動や機械論的な自由意志とは関係ありません。また、そもそも自由市場で自由な意志というときは選択が規制などから解放されて自由であるという意味に過ぎず、機械論との対置で使われているわけではありません。むしろミクロ経済学では人間は合理的な選択しか取らない存在だと位置づけられ、機械論的な自由意志とは遠く離れたところにいます。
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@shovel リバタリアニズムでは独立した主体の存在ではなく独立した主体における自由意志に基づいた行動を理論の中核に置いていると考えていました。例えば自由市場経済は各人の自由意志に基づいた行動によって成立しています。
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@Panpsyche リバタリアニズムも政治"哲学"ではあるから、ここでは「自然哲学と政治哲学との違い」か、あるいは「古典的哲学と現代哲学との違い」といえそうですね!
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@shovel あー確かにリバタリアニズムとかの文脈における自由意志と哲学における自由意志って全然意味が違うことに気付きました。