仏教は諸行無常と諸法無我を理解して涅槃寂静するだけといった方がきっと現代人にはウケる。みんな頭よくなってると思うし。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 09:54:02 JST
きゅーけー
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 10:13:45 JST
きゅーけー
「諸行無常」はこの世の全ての物(行は概念を除く)は変化し続けていることを意味している。
そんなの当たり前だろうと今どきの人は思うだろうけど、実際のところこれがどういうことか理解してないと思う。
たとえば、私が手にしている「ボールペン」は工場でボールペンが作られてから、破棄されるまでの期間のことをただ「ボールペン」と呼んでいるだけであり「ボールペン」が実際に実在しているわけではない。ボールペンの元となる物質が集まってボールペンと呼ばれる状態になっているだけであり、「生ずる」とか「滅する」などということは実際には起きていない。ただ、それを「ボールペン」と呼ぶ一定の期間があるというだけである。なおこれは「私」も同じ。
このことから「諸法無我」が導かれる。あらゆるもの(法は概念を含む)に対して「実体がある」とはいえない。さっきの例でいえば「ボールペン」は生ずることも滅することもない。ただ人間がそれをボールペンと呼ぶ一定の期間があるだけである。なおこれは「私」も同じ。
上記を完全に理解することで苦(思いどおりにならない)を感じることががなくなる。それが「涅槃寂静」である。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 10:27:21 JST
きゅーけー
プログラミングについてある程度知っている人にとっては、仏教は割と理解するの楽勝だと思うんだよな(心の底から納得できるかは別として)。
0と1が並んだ状態に対して名前を付けて抽象化することで意味のあるデータと見做して計算しているわけだけど、「諸法無我」っていうのは現実もそれと似たようなもんだよって言ってるだけだからな。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 10:55:57 JST
きゅーけー
仏教が宗教といわれるのは、それを理解するのが難しすぎることが主要因で理解できないことを納得させるには宗教的にならざるを得ない……。諸行無常と諸法無我は他人事になるとまあそうか、って思うんだけどそれを自分に当てはめようとすると納得できなくなってしまう問題がある。
人は必ず死ぬが仏教的に言えば生ずることも滅することもない(不生不滅)。輪廻から解脱というのは、インドでは輪廻転生することが常識だったからそういう表現がなされていると解釈するのがいいと思う。ようは、そもそも輪廻などしないし、私でない状態から私になりそれから私とは呼ばれない状態に遷移していくだけであり生じることも滅することも実際にはないのである……。これが断見(死んだら私は消える)と常見(死んでも私は残る)の両方を否定する仏教的な死生観である。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 11:22:13 JST
きゅーけー
お坊さんが「おかげさま」を大切しなさいとか言ってくるのは、諸行無常と諸法無我から導かれる縁起を元にしていて単に道徳的なこと言っているわけではない。ちゃんと仏教的な思想をベースにしている。お坊さんはなんか良さげなことをただ言っているだけの存在ではないのだ(個人差はありそうだけど)。
諸法無我が真だとするとこの世界に実体なるものはないわけで、ではどのようしてこの世界で何かが起こるのかといえば他との関係性によって事象が発生すると考える。これが縁起になる。
ようは何か実体のあるものが単独でこの世界に対して作用するんじゃなくて、全てが他のものに影響されて起きていると考えるわけだ。お坊さんが「おかげさま」とよくいうのはそこから来ている。
「私」が何かして良いことがおきたなら、驕り高ぶるのはやめてそれを起こさせた縁に感謝しなさいということになり、「私」が何かして悪いことが起きたときはまあそんな自己嫌悪に陥いる必要もないよという話になる。
そもそも「私」は単独で存在するわけではなくて、無数の縁によって成立しているものであるわけだから常に「おかげさま」に感謝しなさいという話になる。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 11:42:00 JST
きゅーけー
そういう仏教的な思想から、自分のことばかり考えないで周りの人について考えた方がいいよというようなよくある道徳的な話と同じ結論に達する。周りの人が自身を成立させているわけで、周りを助けることはそのまま自身を助けることになるということは縁起の話からは自明であり、お坊さんはそういう話をよくするのだ(周りにどういう働きかけをしたら良い結果を生むのかについては簡単な問題じゃないだろうけど)。
お葬式とかお寺にきた人に哲学的な話をしても仕方ないしそういう感じになるんだろうな。
ただ、お葬式でよく読まされる般若心経にはこのスレッドで書いたような諸行無常と諸法無我に関係する話が書かれている(意味分からずに読まされているわけだけど、葬式の場で哲学的な話を始めても仕方がないししゃあない……)。
般若心経の最初の部分でもう、観自在菩薩が修行してたら五蘊(自分を構成する全てのもの)が皆空(有るでもないし無いでもない、有無を越えた存在)であることが分かって苦がなくなったみたいなことが書いてあって、実はかなり一般常識から外れたやばい文章を唱えさせられている。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 18:45:53 JST
きゅーけー
過去に大仏が感染症対策として機能すると思われて作られ、実際感染症対策としては機能しないことは明らかなわけだけど、では「大仏は人を死から救わなかったのか?」という観点で見たときに私は疑問に思う。
そもそも、感染症が蔓延しようがしなかろうが人は必ず死ぬ。死は生老病死といって四大「思い通りにならない」ものの一つであり死から逃れることなどそもそも有り得ない。
仏教の究極的な目的は、生老病死を「思い通りにしようと感じない」ようになることで、生老病死を苦でなくすることである。
死を受け入れられずに死ぬのと死を受け入れて死ぬのではどちらがより救われているかといえば、私の主観としては後者がより救われているようにみえる。
大仏が仏教に入るきっかけ(仏縁)となり、それで死を受け入れることができるようになった人がいれば、大仏は人を死から救ったといえるだろう。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 19:11:11 JST
きゅーけー
10 歳のときに過去の記憶の量が少なすぎたのか自分はまだ生まれてから大して時間が経過していないと感じていた。
それで、それまでの時間を10 倍すると 100 歳になることに気づき私は最大でもいままでの人生を 10 回繰り返す程度で死に至ることに気づいて絶望した。主観的な時間の経過が加速するということも知識として知っていたので自分はすぐに死ぬと考え、どうにか受け入れられないかと死について考え続けたんだけどどうにもならなかった。死んだら「私」は跡形もなく消滅する可能性が大きいように感じていてぞっとしていた。人によってはこれに耐えられるようなんだけど私には消滅する未来はどうにも耐えがたかった。
この問題の解として、仏教が有効そうであることを去年あたりに知ってだいぶ楽になった。
仏教が私に伝えた結論は断見(死んだ後に私は消滅する)と常見(死んだ後も私は残る)のいずれも誤りであり、実際のところどうなるのかは悟らないとよく分からんみたいな話だった。
不思議なことにそれを聞いてからその結論が最も自然に感じるようになって私はかなり楽になった。
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きゅーけー (tojoqk@mastodon.tojo.tokyo)'s status on Friday, 03-Dec-2021 19:18:39 JST
きゅーけー
これだけ死を恐れていても仏教に触れる縁が希薄(15年程度気づかなかった)なことを考えると、いま本当に仏教が衰退している時代に生きているんだなと思う。私が生まれる時代までとりあえず残っていてくれて本当によかった。
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