Conversation
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(オーソドックスのリベラルの)アファーマティブ・アクションの概念の根底には「我々は我々が評価を受けるに本質的に値しない」という概念がある。我々は何らかの能力を持っておりあるいは持っていないが、その能力は社会に構築されたものでありその能力を本質的な理由あって持つべくして持ったわけではないし、その上で、その能力は現在の社会で評価されておりあるいは評価されていないが、その評価自体も社会に構築されたものであるから(原始社会では学歴が評価されないというのが単純な例であろう)、現在ある人々が特定の能力を持っていることを評価されているのは偶然でしかない。現在はテストの点数で決めることが偶然に評価されている状況なだけであり、そこに今やその人の属性を勘案して決めるということを加えたとしても、それは本質的には何も変わらないのである(たとえば日本では多くの大学で18歳以下の入学が認められていないが、それは偶然年齢という属性が低評価されているだけであるし、少なくない大学では推薦によって態度やスポーツの出来を評価して入学が認められることがあるが、それはテストの点数に評価を与える大学と本質的な違いがあるわけではないのである。)だから、現在男性が特権を持っている世界の中の一部に女性を特権化する世界を作るというアクションはまったく正当化され、女性差別を是正するべきだと考えている社会において女性であるという属性が評価を受けるのは、メリトクラシーを至上とする社会がテストの点数に最大の評価を与えるのと同様となるのである。