小説読んでるときに重要なシーンで「他力本願」が出てくると急激に気分が冷めるので困る。
いままで他人任せにしてきたところから自分から行動するというような重大局面において使われることが多くそういうシーンで没入感が削がれるのは結構きつい。それっぽい四字熟語が別に発明されれば良かったんだがな……。
小説読んでるときに重要なシーンで「他力本願」が出てくると急激に気分が冷めるので困る。
いままで他人任せにしてきたところから自分から行動するというような重大局面において使われることが多くそういうシーンで没入感が削がれるのは結構きつい。それっぽい四字熟語が別に発明されれば良かったんだがな……。
他力が「自分以外の力」とするところまではあま字の雰囲気で分かるけどじゃあ、本願ってなんやねんって感じ。本願を舐めるな。
大抵の場合は「他力」は「他人の力」とされてしまう。そうじゃない。浄土真宗的な見方をすれば「他力」とは阿弥陀仏の力であり、仏教的にいえば「他力」とは縁そのものだ。縁に任せて安心してありのまま生きていきなさいという結構ストイックでかつ本質の籠った「他力本願」がなんか悪い意味に使われるのつらい。
「他力本願」がそういう意味で一般に使われているということを知っていても小説の中で出てきてしまうとやっぱ厳しく小説の世界から急激に遠ざかる。
目が覚めて、「他力本願」の誤用がどうしてこんなに引っかかかるのかようやく分かった。
本来の他力本願は要約すると「死んでも大丈夫なこと(輪廻したり、消滅したりしない)は、あなたの現世での行動とはまったく関係なく既に確定している。だから死後についてあれこれ考えて不安にならずに、思い通りにならないこの世を安心して生きていきなさい」
これに対して他力本願の誤用は「他者の力によって自分の都合通りになることを願うこと」
この二つの根本的な違いはであり、「死後に仏になることが確約されているために、一切不安になる必要はなく現世が思い通りにならずとも安心して生きることができる」という部分が、「自分の思い通りにできる」という仏教的に最悪の考えに変わってしまうところにある。
仏教は基本的に思い通りになならない人生をありのまま受け入れて生きるための宗教だ(たとえば、生老病死の問題はいくら頑張ったって自身の都合通りにはならない。都合通りにならない以上は、どうにかするよりも受け入れる方が合理的である)。
「都合通りにならない世を安心して生きる」が「都合通りになる」に変わるのが最悪なんだ。
実際、他力本願を重視する浄土真宗(西本願寺、東本願寺という寺の名称からも本願がいかに重視されているかが分かる)においては、「現世において何か思い通りにできる謎の力」(例: 御守り、祈願、神社での絵馬、七夕、六曜、アマビエなど、無数にある……)を徹底的に否定し、そのようなものに一切頼ることなく生きろという。
それは、現世において一切思い通りにする必要などなく(というかできない)、自分の人生をありのままに生きて、その中で起きる避けられない苦しみは全て受け入れろということである。他力本願にはなんかよく分からない力に頼って思い通りにするのをやめろという強烈なメッセージも込められている。
本来の意味としては、浄土真宗において他力本願とは「人生の思い通りにはならないが安心して生きる」ための心の支えである。決して「思い通りにするために他者に頼る」というような意味ではなく、そのような意味で他力本願という用語を使うと浄土真宗の人は普通に傷つく(だって、心の支えだし)ので本来の意味を知った人(もしくは、自分の知っている意味ではないことを知った人)は話相手が浄土真宗の人である可能性を考慮して他力本願という用語を使うのは控えましょう。
さっきまで他力本願の誤用やめろとかいっておいてアレなんだけど、たとえ誤用であっても他力本願という言葉がこの世で使用されていることには価値があるので、気にせずに他力本願について誤った使い方をしてこの世界に他力本願という言葉を残してほしい。
他力本願が(誤った方法で)一般に使用されているおかげで他力本願について思い出すことができた。私が他力本願の用法の誤りを指摘すること自体が私に他力本願とは何かを知らせている。他力本願について語っているのではなくて、他力本願とは何かを知らされているのだ。
もしも仏教的な意味でのみ他力本願という言葉が使われることになれば、この世から他力本願という用語が消失する恐れもあり、仏縁を世界に残すという意味では他力本願が誤った方法で使われ続け、そしてそれを訂正するものが少なからずいるという状況が継続することは望ましいように思える。
そのため、再度なんらかの縁によって「他力本願」の誤用を見つけたならば訂正し再び他力本願について語ろうと考えている。他力本願の本来の意味とは何かを伝えるために、そして私に他力本願の意味を知らせるために。
他力本願を誤用するものを責めるなど問題外で実際には感謝せねばならない、誤用されているのを見たおかげで私はその真の意味を思い出すことができたわけだから……。物語への没入感を犠牲に、私は他力本願を知ることでいまやるべきことをなすことができた。
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