中学生のときにどういうわけか行動分析学を知ってしまったとき、絶望と希望と世界に対する赦しを同時に感じられたのを覚えている。
行動の予測と制御を可能とする心理学が成立している時点で、もはや自由意志など肯定しえない。私は常に私の「思ったとおり」に行動できるわけではないことが示されてしまった。「心」によって行動が引き起こされるモデルが崩壊した。いわゆる思考とか認知も説明されるべき行動に過ぎないという理論は鮮かであり私に一切の反論の余地を与えなかった。
これは私の思い通りに私を制御できないという意味で絶望であり、同時に環境操作により限定的には私を制御できるという意味では希望でもあった。
同時に、私をそれまで苦しめてきた自身と他者に対する赦しの感情も生起した。結局のところ全てにおいて「主体的な行動」など成立する余地もなく、人を憎む理由も誉め称える理由も実は存在しないということが分かった。
まあ、そのとき不登校だったんだけど結局のところただの中学生たる私に私の行動を制御する環境操作などできず、中学校を卒業し高校に進学するという環境変化によって自動的に不登校問題は解消した。