六曜(この迷信には機会損失を招くという弊害が実際にある、いまなら三密を引き起す可能性があるとして弊害があるといえよう)の風習が何故維持されているのか真剣に考えたい。
これは行動の問題である。よって行動分析学を使って考える。スキナーは聞き手の行動として、「ルール支配行動」という概念を作った。これは行動随伴性(先行事象、行動、後続事象のセット)が言語によって記述されたルールを聞くと、それに沿った行動が自発されるような現象のことを言う。
どのような六曜の維持にどのようなルールがあるか考えてみたい。このようなルールだけでなく直接的な随伴性によって制御されている場合も多少はあると想定される。
弁別刺激として「仏滅の日」だった場合を考える。
想定されるルール: 「嫌な顔なし」→「贈り物をする」→「嫌な顔あり」(実際にそういう経験をすることはないと思うけど言語的に教えられることはあると思う)
直接的な随伴性としては、「親からの叱責なし」→「友達に贈り物をしたと話す」→「親からの叱責あり」みたいなことはありえそう。
こういうのは無数に想像できるんで大衆の行動について考えるのは難しいな。