作品そのものと、個別評論を排除して考えるのであれば、図像をベースにした芸術論は「本物VS偽物」と「過剰(豊穣)VS欠損(貧困)」の二つのパラメーターしか設定できない。つまり、ある作品がある芸術表現の看板的な作品になり得るかどうかが本物・偽物論争で過剰・欠損は前述で本物と判定された作品を基準として、そこに足しているか引いているかを判断するという形になる。そして、本物か偽物かの判断をするためには、とにかく数を見る必要がある。
ところが現代芸術の一部では判断基準を「認識論」に置き出した。分かり易く説明すると、公孫竜の「白い馬は馬ではない」というやつで、この議論に入った段階で、現代では論理学が必須になってぬる。残酷だが、芸術家(と評論家)の中で高等数学を理解している人はどれぐらいいるんだろうか?
要するに、既存のアートの文脈から逸脱した作品はどうするのかとか、図像表現では錯覚を利用するところから認識論に至るという流れが現代アートの底流にあるが、アートで最も重要なのは「お上品なこと」という現実は揺るがないので、どこかでパトロン・公共機関・学術関係と折り合いを付ける必要がある。
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ゆうき (minougun@pawoo.net)'s status on Monday, 24-Sep-2018 00:15:16 JST ゆうき - 史緒 repeated this.
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ゆうき (minougun@pawoo.net)'s status on Monday, 24-Sep-2018 00:19:26 JST ゆうき 上記の人々と折り合いを付ける必要がなければ、図像は浮世絵・漫画扱いになる。承認欲求の強いオタクは、世間様から認められたいとブーブー言ってるが、そういうオタクは権威におもねる為にオタクを罵倒するか半人前扱いするパターンに陥る。
コミケに来ているのに「もっと社会から認められないと」とか、アニメをヘビーローテーションで見てるのに「政治とは……」とネットに書いちゃう人達。
だったら、ちゃんとお上品に振る舞え、子供っぽい真似は止めろとしか思えない。しかも、少なくとも関東ではこれに加えて作者の容姿判定があるから立ち振る舞いにも気をつける必要がある。史緒 repeated this.