私は高木浩光のファンなので、このブログにもさまざまな影響が見て取れる。高木浩光とカエル砂鉄を比較する記事を書いたこともある。特に、GDPRについての記事で「法を題材にした論理パズルに熱中すべきではない」と書いたことは、高木浩光からの影響が顕著であるので、出典を明らかにしようと思う。
高木浩光の2008年12月31日の記事は、高木浩光の興味がセキュリティからプライバシーに移行しつつあった時期の証言であり、ファンにとっては必読の記事である。高木浩光がプライバシーの観点からグーグルストリートビューを検証したところ、読者から「この話題は興味ないから、早くいつもの話題に戻って」というコメントが寄せられたという。これに対して、高木浩光は、「技術的知識欲が満足されることが快感なだけで、本当はプライバシーなんてどうでもよかったのか?」「私たちコンピュータセキュリティの研究に携わる者は、技術的に面白いから蘊蓄を垂れているいるだけなのか。」といった、激しい反応を表している。自分自身の読者やファンに対して、敵意とも取れるような強い言葉を用いるのは異常なことで、10年前の私に鮮烈な印象を残した。
2008年の高木浩光は、コンピューターのセキュリティとプライバシーが論理パズルの題材として消費されてしまうことを憂慮していた。2018年の私は、法律を論理パズルの題材として消費しようとするインターネットの傾向に対して、機会があるごとに敵意をあらわにしている。
2016年には、私は「法フィリア」という用語を提唱した。当時の情勢としては、これは著作権や著作者人格権を振り回して自分自身の立場を有利にしようとする、自意識過剰なクリエイターを揶揄する意味合いがあった。この用語はLGBTPZN界隈に膾炙した。LGBTPZNの後ろ3字はペドフィリア・ネクロフィリア・ズーフィリアであり、「フィリア」という接尾語には親しみがあった。また、法的に児童とされる年齢が18歳未満であることから、その規定を機械的に適用してペドフィリアを弾圧しようとする風潮に対する反感もあった。
時事の話題について言えば、Coinhiveの設置者に対して、各地の警察が逮捕あるいは強圧的な捜査を濫用したことが記憶に新しい。根拠法となる不正指令電磁的記録罪は、「不正な」プログラムが違法であると述べているにすぎない。「同意していない相手を性的な行為に巻き込むことは性暴力である」というシンプルなルールが、「同意」という多義的な用語に複雑さを丸投げしているのと同じように、不正指令電磁的記録罪においても、個別の問題に応じて、誰かがこの「不正な」を解釈する必要がある。
法案が提出された後になって法律を修正することは難しいのに対して、社会と技術は急速に変化していく。だから、「恣意的な運用」が不可能な法律を作ることはできない。さらに言えば、民主的な社会においては、国会議員も法制局の職員も同じ人間なのであって、彼らの無誤謬に期待することは無意味である。だから、法律の恣意的な運用が問題なのではなく、クソな運用がなされたら、それはクソだと言っていく必要がある。今回の騒動では、クソな運用の当事者は警察なのだから、警察を無限に叩く必要がある。
私たちがどのようなソフトウェアを普及させ、どのようなインターネットを使えるようになりたいかという大局的な理解なしに、法律を題材にした論理パズルに熱中することは、滑稽であるどころか有害でもある。
私たちはしばしばシンプルなルールで倫理を再定義したいという誘惑に駆られるが、静的かつ無矛盾な法で世界を覆うことは不可能である。私たちの世界は、立法者と警察と市民による勢力均衡という、不安定かつ動的なプロセスでかろうじて維持されているにすぎない。善良であることは合法であることよりもはるかに重要である。