せのお (妹尾 賢) (senooken@social.senooken.jp)'s status on Tuesday, 06-Nov-2018 23:59:09 JST
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共同体主義 (コミュニタリズム) という考え方。この考え方がいいなという場面がけっこうある。
例えば,子供をしつける場面。もちろん子供に誰がしつけてもいいわけだ。通りすがりのおじさんでも,隣の家の人でも,学校の先生やクラスメイト,家族でも。
ただ,この中でもっともその役割を担うべきだろうという役割はあるだろう。おそらく,親か先生。道端ですれ違った人がしつけるというのは役割がふさわしくないだろう。
これと同じで,あるコミュニティ内のある場面である行動をするのにもっともふさわしいと思われる人物が,その行動を取るというのが共同体主義的な考え方とか。
先日の会議の話なんだけど。時間を守らなかった人がいた場合に誰が注意すべきかを考える。これは主催者は注意しにくい。なぜならば,自分の会にわざわざきてくれているのだから。お客みたいなもの。だから,主催者は注意しにくい。また,参加していない無関係な外野の人間が注意するのも筋が違うだろう。
では,誰が注意すべきなのか?この場面では同じ参加者が注意するのがもっともふさわしい。なぜならば,実害を受けており,恩義もなく,立場は平等だから。
だから,参加者の誰かが注意するしかない。しかし,こういう汚れ役はあまりやろうと思う人はいない。電車内でマナーの悪い人に注意できるか。ちなみに,注意しなければ,他の場所で同じことが繰り返されるだけで,何の問題の解決にもなっていない。当然ながら,認知できないと同じことをそのまま繰り返す。
囚人のジレンマという公共心理学の話。環境工学ではこんなのも学ぶ。
みなが協力行動を取れば,全体でより大きな便益を享受できる。しかし,一人でも利己行動に走ると,利己行動に走ったものだけが得をし,全体の便益は下がる。
こういう社会問題がよくある。ごみや原発もそう。Not In My Backyard。社会全体には必要だが,自分の近くには来てほしくない,自分は負担したくない問題。
目の前の問題でちょっと頑張れば解決できそうな問題は解決したい。ちょっと頑張れば,動けば案外うまくいくこともある。
最近は,自分の中でこういう意識がある。電車の中でも終点で寝ている人の肩を叩いて起こしたり,うるさい子供にしーっしたり。
まあ,だから何という話なのだけど。正義の探求ね…