なんというか、日常的に人の行動の原因を勝手に説明するっていうことはよくあるんですよね。
行動分析学学んでると、その原因で行動を制御できるのか?っていうのが気になってしまい、別に行動の制御をする必要ない文脈であればまあどうでもいいというのは確かです……。
なんというか、日常的に人の行動の原因を勝手に説明するっていうことはよくあるんですよね。
行動分析学学んでると、その原因で行動を制御できるのか?っていうのが気になってしまい、別に行動の制御をする必要ない文脈であればまあどうでもいいというのは確かです……。
あるいは当人にとって未知の exotic な (←何て言えばいいんだ?) 手法に対して勝手な想像で嫌悪を感じるみたいなのは十分にあるんじゃないのかなぁという気がする
行動科学が流行らない行動科学的な理由として行動科学を学んだ人が行動の原因について言及されたときに嫌悪的な刺激を提示していることが最大の問題かなとはよく思ってます。
人間行動に架空の意味づけをするのには賛成できません。
地獄をなくそうとする行動が強化的なのは私の行動に随伴して正の強化子が出現、もしくは負の弱化子が消失しているからでしょうね。
たとえば、私のマストドンへの投稿に後続して何らかの何かの反応があることが正の強化子として機能しているかもしれないなどといった予測が立てられますね。
地獄を見て地獄をなくそうとする/抜け出そうとするというのも合理的に苦痛を排する方法を考えた結果発生する判断なので……
いやまあどうにかなっていないように見えるんでこの世が地獄のように見えているわけですが、それは個人的な話なわけで多くの人はそうなっていないんで特に問題だと思われていないっていうことですね。
合理性というのはある種の self-containedness があって、その外側にいても内側にいても、どちらでも案外どうにかなってしまうんですよね
結局「合理的な手法をとる」というのが政治の執行者 (市民を含む) にとって重要ではないということなんでしょう。
で、私が問題だと思ってるのは現代は人間行動の科学についての研究はほとんど廃れていてい行なわれていないし、日常レベルでも国際政治レベルでも使われていないっていうことなんですね。
現場レベルでマイクロな目標を、とにかく疑わず達成したいということは現実にあるだろうし (一番身近な例としては「自分の行動をこのように変えたい」などだろうけど)、そこに科学的な? 工学的な? 人間という肉塊に対して再現性のある手法を適用しようというのは至極真っ当なことだと思います
たしかにどのような社会を目指そうとするかというのは結局人間達の合意で決めることであって、まあ絶対的に良い方向があるかっていうとそんなものはないかと思います。
ただ、私が疑問に思うのは「良い社会」の方向性を決めたときに、どうやってその社会を実現するのかっていうところが気になるんですよね。
まあ、そのプロセス自体も「社会」によってどういったものが良いかに絶対的な正しさのある方法があるとはいえないのも同意します。
その上で、目標とする社会を形成するのに人間行動を制御できなかったらどうしようもないよねというのが私の考えですね。
そのうえで自分にとって都合がよい (これは経済的/身体的利益を得られるというだけではなく、信念を満足するかという精神的な利益も多分に含まれる) ものを選択的に「妥当な判断である」と称しているし、その判断の裏に潜んでいる「自分の価値観」の存在を常に自覚するようにしている
人々が社会について考えるという文脈で、主観不在でも結論が変化しないという意味での客観的な判断を妥当なものとして共有できるということを、私は信じていない。
だから、社会について論じるとき主観を排除しているかのように装う言説を、自覚的であれ無自覚であれ根本的には状況を適切に (少なくとも私と互換な形で) 捉えていないと考えてしまうし、それゆえ信頼性にはマイナスの影響を与えて受け取ってしまう。
だから、私は人生や社会や人々を良くすることを (直接であれ間接であれ) 指向するあらゆる行動について、その客観性を信じない。
そのうえで自分にとって都合がよい (これは経済的/身体的利益を得られるというだけではなく、信念を満足するかという精神的な利益も多分に含まれる) ものを選択的に「妥当な判断である」と称しているし、その判断の裏に潜んでいる「自分の価値観」の存在を常に自覚するようにしている
個々の目標について何をすべきか、そのうえで何が優先されるか、本当に “十分な” 情報と前提や文脈の共有があれば思考者に依存しない結論を出せるかもしれない。
でも、 “社会をよくする” ことを目標に据えたとき十分な情報も前提や文脈の共有も無理な話なので、思考者に依存した結論しか出せないはず、ということが言いたかった
だから、私は人生や社会や人々を良くすることを (直接であれ間接であれ) 指向するあらゆる行動について、その客観性を信じない。
ミクロなレベルではそうで (たとえば「食糧自給率を高めたいなら〜すべき」とかもそう)、ただそれは “社会をよくする” という大前提のような暗黙の目標を破棄して「食糧自給率を高める」という隔離された文脈を設定しないといけないよね、という話でした
個々の目標について何をすべきか、そのうえで何が優先されるか、本当に “十分な” 情報と前提や文脈の共有があれば思考者に依存しない結論を出せるかもしれない。
でも、 “社会をよくする” ことを目標に据えたとき十分な情報も前提や文脈の共有も無理な話なので、思考者に依存した結論しか出せないはず、ということが言いたかった
Tokyo-to
https://senooken.jp『「覚悟」とは暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだッ!』 『いきつづけたいという いし… うんめいを かえたいという つよいきもち。わたしは この ちからを… 「ケツイ」と よぶことにした。』 『不運、不幸、不ヅキ、運命、境遇、障害、不平、不正。すべてをねじ伏せオレは勝つ……!』 投資: @senooken_money 実験的にGoogle Adsense広告を設置中。
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