シドマンが発見した刺激等価性とそこから発展した関係フレーム理論ってヒトと他の動物の間の違い(主に言葉に関係する違い)とは何かという超重要な問題について最も迫ったすごいものだと思ってる。
これについては下記の関係フレーム理論の動画がおすすめ。https://www.youtube.com/watch?v=nSWsVHtRhBU&t=19s
シドマンが発見した刺激等価性とそこから発展した関係フレーム理論ってヒトと他の動物の間の違い(主に言葉に関係する違い)とは何かという超重要な問題について最も迫ったすごいものだと思ってる。
これについては下記の関係フレーム理論の動画がおすすめ。https://www.youtube.com/watch?v=nSWsVHtRhBU&t=19s
WHO が作った ACT を元にしたストレスに対する対処法の文書は過去に下記投稿で紹介した。
この問題はおそらく確かにあって、実際のところ「うつ病」的な行動傾向への対処には応用行動分析のアプローチではうまくいかなかった。
言語行動が絡む問題はヒト独特的なところがあって、歴史的にいうと行動分析学における言語がもたらす問題について迫るのにはかなり時間がかかった。シドマンによる刺激等価性の発見から流れが変って関係フレーム理論ができて、最近は行動分析学の立場からもそういうメンタルヘルスにも機能しそうというところにあって、最近行動分析学と関係フレーム理論を学ばなくても使えるように「心理的柔軟性モデル」を確立し、ACT という第三世代の臨床療法が作られた。
これが流行るかどうかは分からないけど、WHO も使ってるんで今後広まるんじゃないかとちょっと思ってる。
ガチャ問題から脱出するためには行動分析学の知見が必要であり、行動分析学の悪用?的なものから逃れるのにもまた行動分析学の知見が必要であり、一部の人が学んでいる状態はとても危険である……。
研究の結果として正の強化じゃないと長期的には行動はうまく維持できないしパフォーマンスが良くなることが分かってるわけで応用されれば原理的に平和的になるといえそうな気はする。(とはいえ、ガチャ問題みたいな明らかな例外っぽいのもあるんだが……)
しかしなー、無自覚なのかどうかは知らないんだけど行動の原理を利用したのかうまく他者行動を制御して暴利を上げている分野(たとえばガチャ)があるんで行動の科学の発展が人類に何を持たらすのかちょっと予想できないところもあると思う。知られた後に平和利用されるんだろうか……。
ここまで科学が発展して「思い通り」にできるようになった社会において行動を制御する方法が知られていないなんてちょっとぞっとする現実だよな……。
やっぱ数百年くらい無理だろうという予測が立つにしても行動に関する考え方の革命はしたいよな。自分のことだけ考えればまあそういう徹底的行動主義的な見方がなされない社会はちょっとつらいというくらいだ。とはいえ、無駄な親子喧嘩起きたり、夫婦喧嘩が起きたり、いじめ問題が解決できなかったり、勉強をうまく教えられなかったり、犯罪を予防できなかったり、戦争が起きたり、行動の制御の失敗によって地球が滅んだって自分のことだけ考えればまあ別にいいんだけど社会的にそういう方向に進むのを避けるんなら行動の科学の普及の優先度は高いよな……。
この受け入れ方自体、機能的文脈主義的であると思ってる。目的のために機能するかどうかで真偽を判断するべきであり構成概念を使っているから駄目とかいうこと自体が機能的文脈主義的でない。
vimeo で有料配信してる「常識の落とし穴」ってやつが常識的な行動の説明が如何に行動の制御に役にたたない上にさらに個人攻撃の罠に嵌って自己批判とか他者批判に嵌るという地獄に入ってしまう件について説明されている。この部分、一番大切だと思うんでこれは YouTube で無料配信して欲しいんだよな……。https://vimeo.com/ondemand/cbs1
行動分析学が心という構成概念に頼らないという件については下記動画をみればなんとなく分かると思う。https://youtu.be/3jrzDSvLuNY
だいたい心理的柔軟性モデル、話を聞いているとどうも行動分析学について多少は知ってないと理解困難なところがあると思われ、その行動分析学を多少知ることすら難しいことを考えると心理的柔軟性モデルがいくら行動分析学とか関係フレーム理論を知らなくても適用できるように作られているとしてもちょっと厳しいのではないか……と思う。
介入者として ACT を使うのあまりに難しすぎると思うんで流行んないんじゃないかなーという気がしてならない……。たぶん、「文脈としての自己」あたりが介入者にとって最難関になると思う。
「認知の歪み」はそれを実体視さえしなければなんら問題のない概念だと思っています。「認知の歪み」の観測は行動傾向からしか判断できないため、「認知の歪み」の実在性について問うことはできないわけで「認知の歪み」によるとされるような行動が起きないようにするための手続きとして「認知の歪みの修正」が機能する以上、自分の持っている哲学的背景が違っていても何ら問題はないというそういう受け入れかたをしています。
なので、私は「認知の歪み」が問題となる行動の原因であるという考えはしないのですが、その有用性を否定する必要はなく問題ないものだとして受け入れるのが最もよいと考えています。
これは、徹底的行動主義に毒された?人にとって必要な心構えみたいなものであってたぶん一般的には不要な考えだと思います。
私にはこう考えないととても受け入れられないので必要なんです。
というか皮膚の内側の現象も「行動」や「環境」であるという考えがなんか常識から外れすぎなんだよな。人の中に本質的な何かがありそれが行動を決定しているという考えを破壊しないと行動分析学の世界には入れなくてこれが最大の障壁なんだろう……。
やはり認知革命が……。
結局、認知も説明されるべき行動と見做す徹底的行動主義は心理学の世界でももうマイナーなんだろうし、アメリカではスキナーの出身地ということもあってある程度尊重される(タイムアウト法とか教育現場で実用されてるらしい)けど日本では厳しいよな……。
たぶん、関係フレーム理論あたりを使って機能性が説明できると思うので行動的に翻訳できないかはある程度検討しようと思ってる。
基礎理論の哲学的背景が行動分析学と違うというだけなんです、たぶん認知の歪みの修正の手続きも機能する以上、徹底的行動主義の立場からも説明可能に違いありません。そういう意味で気にしないのが一番ということにしようと思ってます。
心が行動の原因となっているモデルはあまりに常識的でそれなしではまともに人と会話できないレベルに生活において必要とされるんだけど、その行動の原因は直接操作できないから行動の変容に機能しないんだよな……。そのような考え方の革命はあと数百年くらいは無理そうな気がするんで革命を起こそうとするのはもう止めようと思ってる。
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