ああ、自由ソフトウェアについて思いついたことを投稿しようと思っただけなんにいつのまにかに仏教の話に変わっていた……。
結局のところ私にとっては生老病死の克服の方が重要なんだろうな。まあ関係がなかったわけでもないけど……。
ああ、自由ソフトウェアについて思いついたことを投稿しようと思っただけなんにいつのまにかに仏教の話に変わっていた……。
結局のところ私にとっては生老病死の克服の方が重要なんだろうな。まあ関係がなかったわけでもないけど……。
仏教だと不生不滅を説くんだけどこれがもっとも私を袋小路からの脱出として機能した。ただの状態に過ぎない私が生じたこともなくこれから滅するということもありえない。なぜなら、ただ「生まれて」から「死ぬまで」の間のことを「私」という名前を付けているだけなんだから、何かが生じたり滅したりするということは実は起きていない……。この見方よりマシな死生観はなかなか思いつけない。
この話を聞くまでは、死んだら「私」が完全に消失するという認識でいてそれはそれはとても嫌なことだったんだけど、そもそも「私」って名前を付けてるだけなんだなーって思うだけでだいぶマシになった。
私にとってはいずれ死ぬことが最重要な問題であり続けているわけなんだけど、どういうわけかあんまそういう人はいないらしい。不思議で仕方がない。
生老病死と関連付けることのできない苦しみを見つけることはなかなか難しいかと思う。
なんか新型コロナウィルスが問題だーとか言ってるけど、それって結局死ぬからだよね。死が問題じゃなかったら新型コロナウィルスって問題になりえないよね。でも新型コロナウィルスが流行しようがしまいが人は確実に死ぬんだよな。死を直視しないで他のどうでもいい問題に力を注ぐことで気を紛らわすことしかしない。
死を問題だと思わないで生きてるの、正気の沙汰とは思えないんだよな。もしも本当に生まれてから死ぬ直前まで死を問題視することなく生きていけるんならそいつは既に仏教的にみて悟ってるんだよ。
とはいえ、いま苦しんでるのだとしたら、そいつは実は悟ってはいない。だってあらゆる苦しみは結局のところ死に関連するからね。
いやまあ、仏縁(仏教に入る機会)としては機能する可能性はあると思うけど。
とはいえ、意味も分からずに般若心経を読ませることになんら意味はないと思うが。
まあ、そういう意味では葬式仏教というのは実に理に適ってはいる。身近な他者が死んだときほど諸行無常を実感することはないだろうからな。
仏教的な世界の見方は、この世界はただの状態に過ぎないという見方、特定の概念が実体として存在するという見方を認めない。これは丁度ソフトウェアもデータも01の並びの状態に過ぎないのに、それに名前を付けて意味づけていることに対応する。
仏教ではこの「私」すらもただの状態に過ぎないと観ることによって死を受け入れる。
たとえば、新型コロナウィルスが流行して生活様式が一変したりすると「ああ、そういえば諸行無常だったわ」ってなる。でも諸行無常自体は全てのものは常に変化し続けるっていう意味でしかない。
国語かなんかで諸行無常が出てくるの、仏教的には悪影響が大きいと思う。とはいえ、諸行無常ということを人が実感するのは何か悪いことが起きたときなんでしゃあないというところもある。
実際、仏教は計算機科学を学んだ人にとっては楽勝なのではと正直思ってる。
全てのものが変化し続けるっていうときに、それが物の実在をゆらがされるような意味を持っているとまではならないんだよな。私達はなんか物質が集った一定の期間になんか名前を付けているだけであって、そういった名の付けたものが実在しているわけではないとかいう見方をするのはちょっと難しすぎる。
「諸行無常」はだいぶ誤解されてるんだよな。ただ全てのものは変化し続けるって言ってるだけなんだけど、なんか「全てのものはいずれ壊れる」みたいな感じに解釈されがち。「諸法無我」については多分言葉を知っている人がそもそもいない。さらに諸行無常だから諸法無我とかいってもなっとくいかないだろうし難しい。涅槃寂静はまあ諸行無常と諸法無我を完全に理解し納得すればそりゃ楽になるだろうなって感じするし涅槃寂静はそんな重要な感じしないな。
まあ、それを理解したり納得するのがあまりに難しすぎるので宗教的にならざるを得ないんだけどな。シンプルだからといって簡単だとは限らない。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の簡単解説は下記の投稿で一度やってる。一つの投稿で解説し終わってしまうほど仏教はシンプル。https://mastodon.tojo.tokyo/@tojoqk/107380344348031021
本質はマジで大きくない。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を理解したらそれで終わり。
仏教の目的は生老病死の克服(不老不死になるんじゃなくて、いずれ死ぬとかそういう原理的に思いどおりにならないことをありのまま受け入れるという意味)なんで、道徳的な話は仏教哲学的な結論から導かれるおまけみたいな感じなんだけど、そのおまけは世俗に説くという文脈においては大切にされるのでな……。
Tokyo-to
https://senooken.jp『「覚悟」とは暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだッ!』 『いきつづけたいという いし… うんめいを かえたいという つよいきもち。わたしは この ちからを… 「ケツイ」と よぶことにした。』 『不運、不幸、不ヅキ、運命、境遇、障害、不平、不正。すべてをねじ伏せオレは勝つ……!』 投資: @senooken_money 実験的にGoogle Adsense広告を設置中。
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