これ後編も上がってた。なんで県庁が高崎じゃなくて前橋にあるん?っていう話で全面的に正直くだらないんだけど地元民としてはそこそこ面白く見れる。
群馬県庁の展望台は群馬の知られざる絶景ポイントなんで群馬にくる機会があったら是非県庁へ。
これ後編も上がってた。なんで県庁が高崎じゃなくて前橋にあるん?っていう話で全面的に正直くだらないんだけど地元民としてはそこそこ面白く見れる。
群馬県庁の展望台は群馬の知られざる絶景ポイントなんで群馬にくる機会があったら是非県庁へ。
とはいえ、悲観的になる必要もまたない。いままでの全て(自他含む)がなければ今の私など決してありえないわけだから。とくに今の私が「龍樹」を読めたのはいままでの人生全てのおかげである。ありがたいという他ない。
行動分析学に行きついた要因としては少なくとも当時、私的出来事(皮膚の内側での自分にしか観測できない出来事)を報告(専門用語でいうとタクト)する行動レパートリーが欠如していたところに起因していたのではないかと思う。
とくに、「何故あなたは学校に行きたくないの?」という質問に対する答えを私は用意できなかった。実際には真の理由を探求する必要などなく、何かそれっぽいことを言えばいいだけだったんだけど、そういう行動のレパートリーが欠けていた。その問いに対する回答を必死に考えた結果、思いつく限りどのような回答をしたとしても無限遡及に陥いって説明にならないように感じられ何も言えなかった。実際には日常生活においてそんなことは考えずにそれっぽい理由づけをすればいいだけだったんだけど、そのときは行動レパートリーが欠如していてできなかった。
これが行動の原因って何だろうということを考えるきっかけになり、行動分析学を知るに至ったのだと思う。
この例から分かるように、行動分析学は環境操作を可能とする立場に立つものにとって最も機能的である(親が設定する環境を子が覆すのは容易ではないが逆は比較的には容易である)。
これを中学生の時代に痛感したんで行動分析学の随伴性制御の限界はよく知っている。親すら自由意志はなく随伴性から逃れるすべを持たない以上、はっきりいって行動分析学を意識した教育ができるかどうかなんて生まれとそれまでの環境次第でありどうしようもない。
行動分析学を使って行動を制御すること自体もまた随伴性による制御を受けた結果に過ぎないわけであり、行動のコントロールには原理的な限界があるわけで結局のところなんでもできるわけではないのは自身の理論によって示されているわけだ。
このことを不登校を継続しながらにして、認識しているのは実際結構つらかった。行動を変容させることのできる理論を学んでいるのにもかかわらず、立場上行動変容を起こすための環境操作が可能な状態とはいえなかった。
応用行動分析学を習得したものが第三者として介入してくれたら如何に良いだろうかとよく想像したがそんなことを起こせる立場になかった。
中学生のときにどういうわけか行動分析学を知ってしまったとき、絶望と希望と世界に対する赦しを同時に感じられたのを覚えている。
行動の予測と制御を可能とする心理学が成立している時点で、もはや自由意志など肯定しえない。私は常に私の「思ったとおり」に行動できるわけではないことが示されてしまった。「心」によって行動が引き起こされるモデルが崩壊した。いわゆる思考とか認知も説明されるべき行動に過ぎないという理論は鮮かであり私に一切の反論の余地を与えなかった。
これは私の思い通りに私を制御できないという意味で絶望であり、同時に環境操作により限定的には私を制御できるという意味では希望でもあった。
同時に、私をそれまで苦しめてきた自身と他者に対する赦しの感情も生起した。結局のところ全てにおいて「主体的な行動」など成立する余地もなく、人を憎む理由も誉め称える理由も実は存在しないということが分かった。
まあ、そのとき不登校だったんだけど結局のところただの中学生たる私に私の行動を制御する環境操作などできず、中学校を卒業し高校に進学するという環境変化によって自動的に不登校問題は解消した。
概念の実体に関する言及に対して理解するという意味ではメタ的な概念に慣れておく必要がある気がしていて、Lisp を学んでいたこととか、数学基礎論に関心を抱いていたことが、龍樹の中論の理解に機能したように思えてならない。
あと徹底的行動主義も仮説的構成概念を行動の原因とする考え方を否定するし、そういう概念の実体を否定する考えにそもそも慣れていたのも結構大きい気がする。
西洋哲学の理解が東洋哲学の理解に繋がったり、説一切有部の理解が中論の理解に必要であること自体がもうこの世のありかたが縁起(独立して存在するものなどなく相依っている)ことを示しているように見えて仕方がない。
説一切有部は大乗仏教からすると批判されがち(というか説一切有部への批判によって成っているわけだから当然だが)だけど、説一切有部も時代を考えるとかなり進んだ仏教哲学であったと言わざるを得ないし、説一切有部も基本的に仏教であるけど法に対する考えに仏教自身と矛盾する論理的な弱点があったということで、龍樹はこれを徹底的に攻撃することで法のありかたを説くことに成功したわけだから、説一切有部なしに龍樹なしといえよう。
なお、説一切有部の一切は仏教の法(諸行無常とか煩悩とか)に限るので一切の範囲はかなり狭いことに注意する必要がある。さすがに諸行無常と諸法無我という仏教的な基盤を持ってるのに「この世の全て」という意味で一切が有るといっていたなら仏教とはいえなくなるわけで、説一切有部が自身を仏教であるとするのにはそれなりの根拠があった。
龍樹の中論は300ページにも及ぶお膳立てがないと現在の人にとっても、そして当時の人にとってもまるで意味が分からない文章であったということがよく分かった。
中論は説一切有部や他の宗派や仏教外の人への攻撃によって成立していて、そこから一切自身の主張をしないこと(破邪の論法)によって縁起による世界のありようを語ることにより、原始仏教に回帰するという驚くべき展開をしている。
いままで、龍樹による大乗仏教の肯定はなんか原始仏教から離れていくきっかけになったんだと思ってたんだけど、実は原始仏教への回帰であったということに新鮮な驚きを感じている。
原始仏教における経典でも法の成立の根拠として縁起は考えられてはいたけれど明確には語られていなかったために、後の仏教(特に説一切有部、法の根拠として縁起を使用せずにメタレベルで法が実在すると主張していた)において重視されていなかったのを、龍樹が掘り起こすことによって縁起による法のありかたを語ったというわけで、龍樹は原始経典で明確にされていなかった縁起の概念を精緻化し原始仏教を理論的に補強して広めたということになる。
大乗仏教が何故仏教なのかが分かる。
「現在去りつつあるもの」に「去るはたらきがある」とする考えに異を唱えるの、徹底的行動主義が仮説的構成概念を拒絶するのに近い感じがするな。
過去に一度読んで挫折した「龍樹」(講談社学術文庫)なんだけど、今読み直したら割と理解できるようになってた。
前回読んだときとの最大の違いはカント哲学における分析判断と綜合判断について軽く知ってたのが一番大きい気がする。
不去の説明の中に「現に去りつつあるものは去らない」という意味不明な話がでてくるんだけど、これは「去る」という概念が実在するという考えを否定するという文脈であるために「現に去りつつあるものは去る」を分析判断によって真とすることはできず綜合判断で考える必要があり、そうすると偽となるという話らしい。
まさか龍樹の言っていることを理解するのに西洋哲学が必要になるとは思わなかった。
YouTube の広告の出し方について改善になるかもしれない案について思いついてしまった(別に Google の味方をしたくはないが)。ユーザーにクリックさせることで広告をスキップするんじゃなくて、広告を自動スキップの方をデフォルトにして広告スキップを阻止する行動によって広告会社に対して課金させみてはどうだろうか。
他力本願を誤用するものを責めるなど問題外で実際には感謝せねばならない、誤用されているのを見たおかげで私はその真の意味を思い出すことができたわけだから……。物語への没入感を犠牲に、私は他力本願を知ることでいまやるべきことをなすことができた。
そのため、再度なんらかの縁によって「他力本願」の誤用を見つけたならば訂正し再び他力本願について語ろうと考えている。他力本願の本来の意味とは何かを伝えるために、そして私に他力本願の意味を知らせるために。
もしも仏教的な意味でのみ他力本願という言葉が使われることになれば、この世から他力本願という用語が消失する恐れもあり、仏縁を世界に残すという意味では他力本願が誤った方法で使われ続け、そしてそれを訂正するものが少なからずいるという状況が継続することは望ましいように思える。
他力本願が(誤った方法で)一般に使用されているおかげで他力本願について思い出すことができた。私が他力本願の用法の誤りを指摘すること自体が私に他力本願とは何かを知らせている。他力本願について語っているのではなくて、他力本願とは何かを知らされているのだ。
さっきまで他力本願の誤用やめろとかいっておいてアレなんだけど、たとえ誤用であっても他力本願という言葉がこの世で使用されていることには価値があるので、気にせずに他力本願について誤った使い方をしてこの世界に他力本願という言葉を残してほしい。
冷静になって振り返ると、他力本願の誤用が私に他力本願について思い出させたと言っても過言ではない。ただただ無意味な時間に思われた退廃的に小説の世界に耽っていた私に伝えた今の私にとっての最重要事項であった。このおかげで私は安心して一歩踏み出せる。
他力本願という言葉が消滅するよりも、誤用として世俗の間に残る方が価値のあることであると知らされた。
本来の意味としては、浄土真宗において他力本願とは「人生の思い通りにはならないが安心して生きる」ための心の支えである。決して「思い通りにするために他者に頼る」というような意味ではなく、そのような意味で他力本願という用語を使うと浄土真宗の人は普通に傷つく(だって、心の支えだし)ので本来の意味を知った人(もしくは、自分の知っている意味ではないことを知った人)は話相手が浄土真宗の人である可能性を考慮して他力本願という用語を使うのは控えましょう。
めっちゃ長文書いて「削除して下書きに戻す」をした直後に PC の電源が落ち、さらにもう再度書く時間もなくて草。
他力本願の誤用が嫌だといっている人にはそれなりに深刻な理由があるということだけ書き残したい。
実際、他力本願を重視する浄土真宗(西本願寺、東本願寺という寺の名称からも本願がいかに重視されているかが分かる)においては、「現世において何か思い通りにできる謎の力」(例: 御守り、祈願、神社での絵馬、七夕、六曜、アマビエなど、無数にある……)を徹底的に否定し、そのようなものに一切頼ることなく生きろという。
それは、現世において一切思い通りにする必要などなく(というかできない)、自分の人生をありのままに生きて、その中で起きる避けられない苦しみは全て受け入れろということである。他力本願にはなんかよく分からない力に頼って思い通りにするのをやめろという強烈なメッセージも込められている。
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