自身の行動の原因を本人が知っていたとしてもそれを言わない方が行動が強化される場合(まあようは褒められる場合)、自身の行動の原因について語る行動は自発されなくなっていく。
別にそれが悪いというわけではない。そういう随伴性があるというだけ。
自身の行動の原因を本人が知っていたとしてもそれを言わない方が行動が強化される場合(まあようは褒められる場合)、自身の行動の原因について語る行動は自発されなくなっていく。
別にそれが悪いというわけではない。そういう随伴性があるというだけ。
称賛されるようなことでも行動の原因が外からみても明らかな場合は、褒められることはない。
内心や価値観を隠蔽するにはそれなりの説明ができる。これがスキナーの言っている「尊厳(Dignity)」に当たるもので、こういったものを隠蔽した状態で行動を自発すると周りの人から強化される。まあようは褒められるという随伴性がある。
であればこそ、人々が異なる判断を下しうるような話題について、そういった隠れたコンテキストをあたかも存在しないかのように目を背けるというのは意見の表明や交換の方法として不誠実だと考えるし、少なくともその存在を明示したうえで切り込んで分解し共通点と非互換な点を割り出していくことを躊躇うべきではないと思う
ある意味、スキナーが行動分析学のアイデアを最初に公開した本だと言えるわけで読む価値は結構ありそうなんだよなあ。
たぶんほとんどの人はキャッスルさんの視点になっちゃうんじゃないかな……。
ちょっと読んでないので自信ないけど、心理学ユートピアはパリス教授は普通の心理学の人、フレイジャーが行動工学最高だろっていうスキナーの分身で、キャッスルっていう人がユートピアを伝統的な価値観によって扱き下ろして、フレイジャーがそれに反論するっていう感じの構成になってる。
もちろんスキナーが書いてるし、パリス教授は最終的にはユートピア良いねってなって終わるらしい。
なので主人公の視点は一応当時(今も変わってないが)の人間観の視点で書かれているけど、最終的にパリスがフレイジャーによるのが納得いかないみたいな感じになる気がする。
あー、読みたくなってきた。
フレイジャーって人が明らかにスキナーの分身で、ちょっと自分を小説の中に入れて無双させてみました感があって手を出しにくいんだよなあ。
スキナー先生、実験行動分析始める前からだいたい構想できてたっぽいんだよな。この理想郷ができるかどうかは分からんけど……。
やっぱ読んだ方がいいかなあ。
そう考えるとウォールデンIIが酷評されたのも自然な流れだろうな……。
まあたとえばディストピアを描いたって所詮読者は現行秩序の構成員なわけで、その点で「今の人々にとって有意義であるような形での描写しかできない」という割と深刻な制約は抱えているけどね。
いやでも脳の挙動から行動制御するよりも行動分析学を使った方が適切な抽象度であるということは十分ありえ、それでも活躍の機会はありうるか。
まあ、でもそのときには脳科学を使えば行動の制御ができるようになっているので、行動科学の役割は終わってるんだよなあ。
スキナーの目指したことってまだ無謀な感じするなー。もしも、脳の構造が完全に解明されたとして環境から切り離されて決まる行動というものが一切ないということが科学的に確認できたとしてもどこかに自由意志の座がいすわって行動科学の時代は来ないのではないかと思ってしまう。
あ、これ私への言及じゃなさそうですね……。
まあでも我々は行動の原因について日常的に言及するのでその影響は大きいわけですが……。
あー、行動の原因に言及する際の語彙が大きく変わる程度で他は大した影響はたぶんないですね。
たとえば、新しい概念体系では日本国憲法を読解するのが著しく困難になるかもしれません。
実際、概念は非互換ですね。少なくとも行動の原因を特定し行動を制御する文脈においては日常的な概念体系と全く異なる説明が行なわれます。
そういった手法における人間行動の見方が当然になった社会が訪れた場合には、現在の社会の概念体系とは互換性のないものになるかと思います。
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